成田空港 空と大地の歴史館
に立ち寄りました。
『 成田空港 空と大地の歴史館 』 とは
http://www.rekishidensho.jp/rekishikan/rekishikan_top.html
成田空港は、1966年7月4日に成田市三里塚に建設されることになりました。
その時から、地域を守ろうと空港建設に必死で反対した農民やその支援者、
日本のために必死に新空港を建設しようとした人々、
そして、対立の周囲にいた住民たちの苦悩の歴史が始まり、
力と力の対立のなかで犠牲をともないました。
その後、建設側と反対側との公開討論を経て、成田空港問題について
地域も巻きこんだ話し合いが進んでいきます。
地域と空港をめぐる歴史的経緯とそこにかかわったさまざまな立場の人々の
苦悩と想い、これらを複眼的な視点からとらえ、この地に刻まれた歴史を
できるだけ正確に後世につたえていくことを目指して当館は設立されました。
(同館HPより)
先日の焼き肉の日記で成田市三里塚にある焼き肉屋を紹介しましたが
ここ三里塚は、三里塚闘争が行われていた場所です。
政府は、今の時代では考えられないような一貫した非妥協の姿勢で
成田空港建設計画を遂行し、1971年(昭和46年)2月22日に建設予定地で
警察を用いて第1次行政代執行。
成田空港建設に反対している地元民の反対同盟と機動隊が衝突しました。
同年9月16日にも建設予定地で第2次行政代執行があり、
激しい闘争によって双方に死者と多数の負傷者を出しました。
空港公団は突如、「住居への代執行はしない」との約束を反故にし、
初となる民家住居への代執行を強行。
立ち退きに反対していた大木よね宅に機動隊が突入してきて、
大木よねは脱穀機の下にひきずり倒され、機動隊の盾が大木よねの顔に命中して
前歯が4本折れ、口から血が吹き出した。
大木よねの白髪は乱れ、顔は鬼のような凄まじい形相であったそうです。
強制執行から2年後にお亡くなりになったそうです。
初期の三里塚闘争は身元民での反対派が集まっての反対運動っだったそうです。
当初は、空港反対運動に革新政党も参加したが、日本社会党は、千葉県知事と
紳士協定を結び、早々に運動から離脱。
日本共産党は、反対同盟が新左翼党派と共闘関係を結んだことに反発して、
反対同盟との対立を深めて運動から離脱しました。
これらの政党が反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、
農民たちが不信感を持ったことも影響してその結果、農民たちは
「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取り、新左翼団体の介入に
繋がっていきます。
そして、どんどん↓の動画のような過激な反対運動になっていったそうです。
成田空港建設後も反対派との争いは続き、成田空港位置計画から28年間も
不毛な争いが続く事になりました。 注(共生委員会発足まで28年)
現在、成田空港で働いている従業員数は、
2014 年度成田空港内従業員実態調査結果によると40,651 人
成田空港を使用している人は、年間3700万人とも言われていますし
成田空港だけで4万人もの人が働いているこの場所は、もうこの町の人達にとっても
なくてはならないものになっているのかもしれません。
『 成田空港 空と大地の歴史館 』 の最後の展示物が、建設派と反対派の和解で
締めくくっているのがせめてもの救いでした。
成田空港を利用して海外に行く機会のある皆さんは
一度はここに訪れて、成田空港の歴史をもう一度見直してみる
必要があるように感じました。
『夏子の酒』(94年に和久井映見主演でドラマ化)の作者 尾瀬あきらさんが
1992年春から1993年末にかけて連載した 『 ぼくの村の話 』
いわゆる「三里塚闘争」を、現地の村に住む少年の視点から描き出したものです。
アマゾンで Kindle版もありますのでおススメの作品です。